| ◆すべては行善寺から始まった。 |
ちょっと裏話@「佛子園発祥母体 妙林山行善寺」
1418年(応永25)、日蓮の孫弟子日像上人が開基した古刹。インドのビシュケマ(備首渇摩)王が刻ませた仏母摩耶夫人の釈迦生誕の秘像が安置されていて、授子安産の道場として広く伝承されています。
幼くして母と死別した文豪・泉鏡花がこの摩耶夫人像に母の面影を偲び、終生にわたり敬慕し参詣することを楽しみとし、鏡花の「美と幻想の作品世界」に多大な影響を与えたといわれます。また、境内には日像上人ゆかりの需木、妙林柿があり、数百年の歴史を永劫に伝えています。
当法人は、今から40年余り前、日蓮宗行善寺住職、故・雄谷本秀氏(初代理事長)が宗教誌の販売をしながら行き場のなくなった子供たちを庫裏に引き取ったことから始まりました。
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ちょっと裏話A「民話 妙林柿と行善寺」
むかしむかし。秋の夕暮れどきのこと。村のあかりをたよりに近づいてくるひとりのお坊さんがいた。
小さなわらぶきの家から、わずかに灯が見えたので、お坊さんは家の前に立って「どなたかおいでなさらんか」と声をかけた。すると「どなたかのぉー。こんな夕暮れどきに。何の用じゃろう」と、ずいぶん年をとったおばあさんが顔を出した。お坊さんは「旅の途中の者です。すっかり日が暮れてこまっております。どうか軒下でもいいから一夜の宿をおねがいできんものか」とたのんだ。おばあさんは「なんのなんの、みたとおりのあばら屋で、なんのもてなしもできんが、こんなところでよけりゃ、ゆっくりなされりゃいい」と言って家の中へ案内した。
ちらちらと燃える‘いろり’のわきに通されるとお坊さんはたいそうよろこび、越後から京への旅の途中であることなどを話し始めた。お坊さんの話をいっしょうけんめいに聞いていたおばあさんは、深く感動して思わずお坊さんに向かって手を合わせた。
それから、どれだけの時がたったろうか、おばあさんは「貧しい暮らしで、米などとても食べられんが、麦のおかゆじゃがひとつ食べてくだされ」と言って箱善を差し出した。
お坊さんは、ていねいに頭を下げてお礼を言い、箸をとりながら、話を続けた。
目を輝かせ、話を聞いていたおばあさんは、とっておきの柿があるのを思い出し、大切そうに出してきて‘いろり’の火で焼いて「渋柿じゃが、焼けばうまくなるで」と言って、お坊さんに差し出した。お坊さんは「これは珍しいものを。焼いた柿を食べるのは初めてじゃ。どれ」と感心したようすだった。
あくる朝、お坊さんはお礼を言うとまた旅に出ようとした。
おばあさんは「ひとつお願いがあるんやが。私は髪を下ろし尼として仏様の教えを守っていきたい。どうかお坊さんの弟子にしてくだされ」と言った。お坊さんは突然のことでびっくりしたが、おばあさんのあまりの熱心な気持ちに心を打たれた。
お坊さんは尼になったおばあさんに‘妙林’という名前をつけた。おばあさんはたいそうよろこんだ。お坊さんは信心深い人がまた一人増えたことをたいそう喜び「そうじゃ昨日の夜いただいた柿の種を庭にまいておく。そなたがこれからも私の教えを守り、信心深ければきっと柿は芽を出し、たくさんのみをつけることじゃろう。」と言って黒く焼けこげた柿の種を手のひらにのせ、七回お経を唱えて、ねんごろに土に植えた。
おばあさんは、それからずっとお坊さんの教えを守り、尼として暮らした。それから何年もたつうちに、柿の種のことをすっかり忘れてしまっていた。けれど、あるときふと思い出してその場所へ行ってみるとなんとまぁー黒く焼けこげたはずの種から柿は生き生きとした芽を出しておった。尼となったおばあさんは、いまさらながらに、あのお坊さんの偉さにおどろいた。
その後何年かたって、おばあさんは京に上ってお坊さんを訪ねた。おばあさんは柿の種のことをお坊さんに話すと、お坊さんは「それはそれは、結構なことじゃ。そなたの信心のおかげじゃ」とたいそう喜ばれた。「そんならこれを」と言って一体の仏像をおばあさんに授けられた。おばあさんは大事に村へ持って帰り、粗末な家じゃったがねんごろに安置し村人とともに朝夕にお参りした。
それから何年かたったある秋のこと、お坊さんの植えた柿の木には黒い種の大きな実がたくさんなったということじゃ。この柿を村人たちは「妙林柿」と呼んでいつまでも大切にしたということじゃ。
終わり
この妙林柿は現在も行善寺境内の右側に植えられています。
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◆地ビールは明治時代にすでに作られていた。? |
ちょっと裏話B「法人と地ビールの不思議な縁」
なんと、地ビール造りを授産項目にしちゃう施設、それが日本海倶楽部です。
とは言え、発泡酒が乱造され、ドライ系がもてはやされる時代。それに対抗するのは至難の業。だから対抗するのではなく、「この味に惚れ込む」そんなビールを造りたいと私たちは思っています。
さて、日本海倶楽部は地ビールで行こう、サービス業で行こうと話に花が咲いていた平成9年当時、石川県で初めて地ビールを造った人を調べていたら意外な事実が分かりました。どうも明治時代に理事長のご先祖様が地ビール造りにトライしていたらしいのです。日本海倶楽部の授産項目をどうしようかという話をしていた矢先だっただけに、私たちは考えていた方向性に確信を得たのでした。
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ちょっと裏話C「日本海倶楽部の名誉鉄人 山口シェフ」
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Heart & Beer日本海倶楽部の一角には、今でも彼の写真が飾られています。
彼の名前は山口雅人、もともと洋食を専門とするシェフでした。シェフがつくりだすメニューの数々は洗練されたものでありながら彼のように優しく繊細。特にパスタは絶品で、お客様の舌を喜ばせたものです。
彼は32歳という若さでこの世を去りました。急性骨髄性白血病でした。私たちは彼を、そして彼の料理を決して忘れないでしょう。
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料理指導中の 故山口シェフ(左)
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2年半の間、Heart& Beer日本海倶楽部を駆け抜けた山口シェフに社会福祉法人佛子園理事長がこんな文章を寄せています。
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日本海倶楽部シェフ故山口雅人君のこと
初めて彼に会ったときのこと。日本海倶楽部の建設工事は冬を圧して進められていた平成10年1月28日、星が岡牧場にやってきた彼は恥ずかしそうに自己紹介をした。弱冠30才、優男の彼は一見して頼りなげだった。自慢のビールは当時未完成で、当時彼が好んで飲んだ日本酒で飲み語り明かした。障害のあるなしに関わらず自分達の仕事に誇りを持てるような職場にしたい、観光客も良いが地元の人に可愛がられるようなレストランにするにはどうしたら良いのか、何よりも本当にうまくゆくのか、我々はまさに不安の真中にいた・・・。
半年後、オープンして初めての夏。許容を超える連日の来客、仕込みが間に合わない。スタッフ総出でひたすらじゃが芋を剥く、シェフは切れかけたソース作りに余念がない。夜も白白とするころ目途がついた。今日だけではなかった。互いに疲労困憊なはず、ふと顔を上げると山口と目があった。出会った時と同じ照れくさそうな笑顔、それだけですべてが分かり合えた気がした。我々は1つの答えを出したのかもしれない。
彼の料理は来る人来る人を魅了した。開店当初の繁忙期が一段落ついた頃、レストランには次第にリピーターが増え始めていた。彼の開発するメニューが人々の心を掴んでいるのは明らかだった。一様の成功を収め、次の夢を語り始めたスタッフ。彼のイタリア武者修行や福利厚生のためのキャンピングカー購入の話などなど、今度は自慢のビールを片手に話が弾んだ。何よりも職場の同僚であった結花さんともめでたくゴールすることができたときでもあった。
平成12年9月19日、彼は急性骨髄性白血病と診断され入院、平成13年6月21日この世を去った。誰よりもこの仕事を愛し何よりも現場に復帰できることを願い信じていた。9ヶ月もの闘病生活は想像を絶するものではあったが相変わらず泣き言一ついわなかった。病室には、いつ戻ってもフライパンが振れるようにとダンベルを、新メニュー開発のため苦手だといっていたノートパソコンも持ち込んでいた。
亡くなった彼の枕もとで、お母さんから彼が生前「ようやく自分の終生の居場所が見つかった」と言っていたことを聞かされた。日本海倶楽部を心より愛し育てたシェフ、今でも厨房をのぞくと彼がそこにいて照れくさそうに笑っているような気がする。法人一同、心より彼のご冥福を祈りたい。
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社会福祉法人佛子園
理事長 雄谷 良成
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