ちょっと裏話

ちょっと裏話①「佛子園発祥母体 妙林山行善寺」
1418年(応永25)、日蓮の孫弟子日像上人が開基した古刹。インドのピシュケマ(備首渇摩)王が刻ませた仏母摩耶夫人の釈迦生誕の秘像が安置されていて、授子安産の道場として広く伝承されています。  幼くして母と死別した文豪・泉鏡花がこの摩耶夫人像に母の面影を偲び、終生にわたり敬慕し参詣することを楽しみとし、鏡花の「美と幻想の作品世界」に多大な影響を与えたといわれます。また、境内には日像上人ゆかりの需木、妙林柿があり、数百年の歴史を永劫に伝えています。  当法人は、今から40年余り前、日蓮宗行善寺住職、故・雄谷本英氏(初代理事長)が宗教誌の販売をしながら行き場のなくなった子供たちを庫裏に引き取ったことから始まりました。

ちょっと裏話②「民話 妙林柿と行善寺」
むかしむかし。秋の夕暮れどきのこと。村のあかりをたよりに近づいてくるひとりのお坊さんがいた。
  小さなわらぶきの家から、わずかに灯が見えたので、お坊さんは家の前に立って「どなたかおいでなさらんか」と声をかけた。すると「どなたかのぉー。こんな夕暮れどきに。何の用じゃろう」と、ずいぶん年をとったおばあさんが顔を出した。お坊さんは「旅の途中の者です。すっかり日が暮れてこまっております。どうか軒下でもいいから一夜の宿をおねがいできんものか」とたのんだ。おばあさんは「なんのなんの、みたとおりのあばら屋で、なんのもてなしもできんが、こんなところでよけりゃ、ゆっくりなされりゃいい」と言って家の中へ案内した。

  ちらちらと燃える‘いろり’のわきに通されるとお坊さんはたいそうよろこび、越後から京への旅の途中であることなどを話し始めた。お坊さんの話をいっしょうけんめいに聞いていたおばあさんは、深く感動して思わずお坊さんに向かって手を合わせた。

  それから、どれだけの時がたったろうか、おばあさんは「貧しい暮らしで、米などとても食べられんが、麦のおかゆじゃがひとつ食べてくだされ」と言って箱膳を差し出した。

  お坊さんは、ていねいに頭を下げてお礼を言い、箸をとりながら、話を続けた。

  目を輝かせ、話を聞いていたおばあさんは、とっておきの柿があるのを思い出し、大切そうに出してきて‘いろり’の火で焼いて「渋柿じゃが、焼けばうまくなるで」と言って、お坊さんに差し出した。お坊さんは「これは珍しいものを。焼いた柿を食べるのは初めてじゃ。どれ」と感心したようだった。

  あくる朝、お坊さんはお礼を言うとまた旅に出ようとした。

  おばあさんは「ひとつお願いがあるんやが。私は髪を下ろし尼として仏様の教えを守っていきたい。どうかお坊さんの弟子にしてくだされ」と言った。お坊さんは突然のことでびっくりしたが、おばあさんのあまりの熱心な気持ちに心打たれた。

  お坊さんは尼になったおばあさんに‘妙林’という名前をつけた。おばあさんはたいそうよろこんだ。お坊さんは信心深い人がまた一人増えたことをたいそう喜び「そうじゃ昨日の夜いただいた柿の種を庭にまいておく。そなたがこれからも私の教えを守り、信心深ければきっと柿は芽を出し、たくさんのみをつけることじゃろう。」と言って黒く焼けこげた柿の種を手のひらにのせ、七回お経を唱えて、ねんごろに土に植えた。

  おばあさんは、それからずっとお坊さんの教えを守り、尼として暮らした。それから何年もたつうちに、柿の種のことをすっかり忘れてしまっていた。けれど、あるときふと思い出してその場所へ行ってみるとなんとまぁ一黒く焼けこげたはずの種から柿は生き生きとした芽を出しておった。尼となったおばあさんは、いまさらながらに、あのお坊さんの偉さにおどろいた。

  その後何年かたって、おばあさんは京に上ってお坊さんを訪ねた。おばあさんは柿の種のことをお坊さんに話すと、お坊さんは「それはそれは、結構なことじゃ。そなたの信心のおかげじゃ」とたいそう喜ばれた。「そんならこれを」と言って一体の仏像をおばあさんに授けられた。おばあさんは大事に村へ持って帰り、粗末な家じゃったがねんごろに安置し村人とともに朝夕にお参りした。

  それから何年かたったある秋のこと、お坊さんの植えた柿の木には黒い種の大きな実がたくさんなったということじゃ。この柿を村人たちは「妙林柿」と呼んでいつまでも大切にしたということじゃ。
終わり
この妙林柿は現在も行善寺境内の右側に植えられています。
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◆クラフトビールは明治時代にすでにつくられていた?
ちょっと裏話③「法人とクラフトビールの不思議な縁」
  1994年にビールの酒税法が改正され、年間の最低製造量が大幅に引き下げられたことから、当時、全国的に小規模な地ビール醸造所がつくられました。いわゆる第一次地ビールブームです。
  それから20年を経て、再びこの地ビールに注目が集められています。それは、各醸造所がしのぎを削り、高品質なビールづくりを追求したことによるもので、消費者もその価値を認める傾向が強くなってきています。
  最近は、こういった品質を重視してビール職人が丹精込めてつくるビールを、熟練の技で作る手工芸品(Craft)になぞらえて、「クラフトビール」と呼ぼうという流れになっています。お陰様で私たち日本海倶楽部の奥能登ビールも県内のみならず、首都圏や関西方面など全国的に取り扱ってくれるお店が増えてきました。

  さて、日本海倶楽部の主力商品はビールだ!と話に花が咲いていた開設準備中の平成9年当時、石川県で初めてビールをつくった人を調べていたら意外な事実が分かりました。
  どうも明治時代に理事長のご先祖様が地ビール造りにトライしていたらしいのです。しかもご先祖様が王冠に採用したデザインは朱鷺のマーク。「この味に惚れ込む」そんなビールをつくりたいと思っていた矢先だっただけに、私たちは考えていた方向性に確信を得たのでした。

ちょっと裏話④「日本海倶楽部の名誉鉄人 山口シェフ」
  Heart&Beer日本海倶楽部の一角には、今でも彼の写真が飾られています。
  彼の名前は山口雅人、もともと洋食を専門とするシェフでした。シェフがつくりだすメニューの数々は洗練されたものでありながら 彼のように優しく繊細。特にパスタは絶品で、お客様の舌を喜ばせたものです。
  彼は32歳という若さでこの世を去りました。急性骨髄性白血病でした。私たちは彼を、そして彼の料理を決して忘れないでしょう。

2年半の間、Heart&Beer日本海倶楽部を駆け抜けた山口シェフに
社会福祉法人佛子園理事長がこんな文章を寄せています。

料理指導中の
故山口シェフ(左)
~日本海倶楽部シェフ故山口雅人君のこと~
  初めて彼に会ったときのこと。日本海倶楽部の建設工事は冬を圧して進められていた平成10年1月28日、星が岡牧場にやってきた彼は恥ずかしそうに自己紹介をした。弱冠30才、優男の彼は一見して頼りなげだった。自慢のビールは当時未完成で、当時彼が好んで飲んだ日本酒で飲み語り明かした。障害のあるなしに関わらず自分達の仕事に誇りを持てるような職場にしたい、観光客も良いが地元の人に可愛がられるようなレストランにするにはどうしたら良いか、何よりも本当にうまくゆくのか、我々はまさに不安の真中にいた・・・。

  半年後、オープンして初めての夏。許容を超える連日の来客、仕込みが間に合わない。スタッフ総出でひたすらじゃが芋を剥く、シェフは切れかけたソース作りに余念がない。夜も白白とするころ目途がついた。今日だけではなかった。互いに疲労困憊なはず、ふと顔を上げると山口と目があった。出会った時と同じ照れくさそうな笑顔、それだけですべて分かり合えた気がした。我々は1つの答えを出したのかもしれない。

  彼の料理は来る人来る人を魅了した。開店当初の繁忙期が一段落ついた頃、レストランには次第にリピーターが増え始めていた。彼の開発するメニューが人々の心を掴んでいるのは明らかだった。一様の成功を収め、次の夢を語り始めたスタッフ。彼のイタリア武者修行や福利厚生のためのキャンピングカー購入の話などなど、今度は自慢のビールを片手に話が弾んだ。何よりも職場の同僚であった結花さんともめでたくゴールすることができたときでもあった。

  平成12年9月19日、彼は急性骨髄性白血病と診断され入院、平成13年6月21日この世を去った。誰よりもこの仕事を愛し何よりも現場に復帰できることを願い信じていた。9ヶ月もの闘病生活は想像を絶するものではあったが相変わらず泣き言一ついわなかった。病室には、いつ戻ってもフライパンが振れるようにとダンベルを、新メニュー開発のため苦手だといっていたノートパソコンも持ち込んでいた。

  亡くなった彼の枕もとで、お母さんから彼が生前「ようやく自分の終生の居場所が見つかった」と言っていたことを聞かされた。日本海倶楽部を心より愛し育てたシェフ、今でも厨房をのぞくと彼がそこにいて照れくさそうに笑っているような気がする。法人一同、心より彼のご冥福を祈りたい。
社会福祉法人佛子園
理事長 雄谷 良成
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ちょっと裏話⑤「星が岡ヒストリー」

星が岡コンサート
障害のあるなしにかかわらず楽しめるイベントを
  星が岡とともに歩みをすすめた「星が岡コンサート」。星が岡牧場が開設された翌年の1996年から2004年までの9年間、星が岡を会場に毎年夏に開催され、毎年約3千人の来場者を見込むビッグイベントとなりました。「障害のあるなしに関わらず楽しめるイベント」をコンセプトに、県内の学生や地域のボランティアのべ3千人が企画段階から加わってつくり上げます。
  「星コン」のメインは星空の下でコンサート。日が落ち、星が瞬く頃、観客席が次第に一体化していきます。障害者と健常者が向き合う(対峙する)のではなく、ともに同じステージ、同じ方向を向く。それはこのイベントのコンセプトを象徴するようなシーンでした。コンサートでの本当の主役はもしかしたらステージ上ではなくて客席側にあったのかもしれません。

コンサートの前座には、星が岡の利用者で構成される「パスチャーズ」も太鼓演奏し人気を博しました。
コンサートのねらい
  星コンのねらいは主に3つありました。一つは、地域住民の方々に障害者のこと、星が岡のことを知ってもらいたいということ。イベント前には、近隣地域一軒一軒、バザー品の提供のお願いにまわりながら、いろいろなお話をさせていただきました。その後、グループホームの開設がこの地域内でスムーズに行われたのも星コンの成果かと思っています。
  二つ目は旧辰口町行政との障害福祉に関する情報交換および理解の促進でした。星コンを通じて、町長はじめ担当課、さらには育成会とも対話がすすみ、2001年には県内で初めての障害者デイサービスセンターを町から委託してもらうにいたりました。
  三つ目は、若い学生ボランティアの育成です。前日までで約3千人、当日は約250人のボランティアが参加します。例年、企画について話し込むうちにボランティアの学生さんたちは利用者と仲良くなったり、なんとか利用者を主役にできる企画はできないかと考えるようになっていきます。福祉系の学生よりもむしろそうでない学生のほうが多いのですが、これまで障害者にあまり縁のなかった彼らが社会人になった時、この経験が町や社会を変えていくきっかけとなるかも知れません。

これまでに来場したアーティストのご紹介
1996年 スーパー鼓嵐
1997年 ビリーバンバン
1998年 白鳥英美子withトワ・エ・モワ
1999年 井上あずみ(写真:左)
2000年 ダ・カーボ
2001年 紙ふうせん
2002年 尾崎亜美
2003年 ジョジョ フロム サーカス
2004年 イルカ(写真:右)

1999年 井上あずみ

2004年 イルカ